(メモ)いいことした気分の落とし穴
先日の4年生図形の授業。
この授業の数日後、
朝のゴミ拾いの時に、授業で作ったサイコロが外に落ちてるのを見かけた。
もちろん、子どもに悪気はないと思う。(授業後も遊んでたし、そもそもみんなポイ捨てが当たり前の国だから。)
けれど、
あの授業は、子どもたちにとって、どれだけの学びがあったのかな。
と、ふと思ってしまう。
この授業について書いた記事を読み返してみたけど、
なんだかすごく良い授業ができたかのように書いてる。
(もちろん、その時は本気でこう思って書いたんだけれど。)
日本で先生をしている時にもたまに思ってたことだけど、
ぼくら教師は、実践を盛って話しちゃうくせがあるような気がする。
エキペ小学校には、オーストラリアから来てる英語の先生がいる。
とても品のいい、感じのいいおばさまで、エキペ小の先生たちも信頼してる。
その先生が、ご自身で作った算数の教材を貸してくれた。
その量がすごくて、びっくり!
いったい、どれだけの時間をかけてこれを作ったんだろう。
ぼくの家に持って来てくれる時に、ちょっとぼやいていた。
「前は、学校にこの教材を置いていたんだけど、
先生たちはあまり使わないし、
使う先生たちも、使い方や片付け方がひどくて、
教材へのリスペクトがないの。」
って。
ぼくも今、5年生の先生と一緒にかけ算九九の教材を作ってる。
けど、この先生の言葉を聞いて、ちょっと待った!と考え直した。
ぼくは作ることで満足してないかな?
バヌアツの先生たちが、どうやってこの教材を長く、効果的に使っていくのか考えたかな?
自分の中でいい感じだった4年生の図形の授業も、
心のどこかで、完成して満足してる5年生用かけ算九九の教材も、
自分が満足してる。
それで、いいことした気分になってる。
べつにそれは悪いことじゃないんだけど、
いいことした気分は、もっと大事なことを見えにくくするかもしれない。
そんなことを考えていた昨日の1年生の授業。
先日行ったテストの結果が悪かったから、
プリントを用意して、担任の先生と一緒に振り返り授業をした。
その授業の中で、
先生が子どもに寄り添って、分からない問題を教えている姿があった。
この姿は、普段めったに見ない。
エキペ小では、普段は大学の講義みたいに、先生の説明をただ聞いて黒板を写す授業ばかり。
日本の教室では当たり前に見られる、
先生が子どもの様子を一人一人見ながら、困ってる子がいたら机のそばにしゃがんで、分からない問題の助けをする
という場面も全く見かけない。
だから、この姿を見たとき
先生、すごいなと思った。
それから、
これが大事なんだよなと思った。
1回の素晴らしい授業よりも
毎日繰り返される先生と子どもの何気ない関わりの方が
ずっと子どもの学びにとって価値のあることだから。
この何気ない関わりも、当然、教師のスキルの1つ。
このエキペ小の先生たちと子どもたちとの、
ささいで何気ない毎日の学びの関わりが、
もっと充実したものになるように支援していけたらいいなと思う。