(メモ)ぼんやりとした視線の正体
時々、子どもが、
何を見るわけでもなく、ぼんやりとして
視線が空中をさまよってる、
うつろな目をしているのを見たことがあるでしょうか。
もしくは、
自分が、そういうことよくあったな~と思い返すでしょうか。
(ボク自身、子どもの頃よくあった。)
何を考えるわけでもなく、
何を見るわけでもなく、
ただただ、ぼーっとしている状態。
バヌアツに来て、
エキペ村でたくさんの子どもたちとふれ合っている中で、
日本の小学校で先生をしていた時よりも
圧倒的に「ぼんやりとした視線」が多いな~とふと思った。
そう思って見ていると、
バヌアツでは、子どもだけじゃなくて、
びっくりするくらい大人たちも「ぼんやりとした視線」をしている時が多かった。
この「ぼんやりとした視線」の正体は、何なんだろう。
そういえば、
大学の先輩が、卒業論文「幼少期の空想経験に関する研究」の発表で、
そのことについて研究していたことを思い出した。
子どもがぼんやりとしてる時は、
架空の友達を作ったり、ファンタジーの世界に浸ったり、
空想力・想像力が活発に働いている大切な時間。
というような内容だったような気がする。
(6年前の記憶だから、すごくあいまいだけど。)
ただただぼんやりとしていていて何もしてないように見えるんだけれど、
最近の研究では、ぼんやりしているときにも脳は活動していることがわかっています。「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼ばれるこの脳の活動によって、外部からの刺激をシャットアウトしてぼーっとすることで、今までに蓄積した知識を前頭葉にたぐりよせる訓練になるのです。
らしい。
さらに、
茂木健一郎さんによると、
この「デフォルト・モード・ネットワーク」だけは、不思議なことに、本を読んだり勉強したり、何か特定なことに目的を定めて考えているときは活動が低下し、反対に無目的で何も考えていない時だけ活性化しています。いわば脳がアイドリングしているときに、一番活発に働いていることがわかっています。
このアイドリングが、脳のメンテナンスに繋がって、
創造力・発想力が高まったり、新しいアイデアが生まれたり、するらしい。
そういえば、
ボク自身、日本で働いていた頃の経験を思い返すと、
忙しい毎日の中で、
何も考えずにお風呂で湯船に浸かってる時に、アイデアがポン!と浮かんだり、
登山をしながら、自然の中で何も考えずに歩いている間に、考えが整理されたりすることがよくあった。
意識的に脳を使わない、
「ぼんやりとする」ことは、
知識や経験、考えや感情などを整理整頓して、
大切なことが見えやすくなることに繋がるのかもしれない。
なんでバヌアツで「ぼんやりとした視線」が多いかと考えると、
単純だけれど、
時間のゆとりが圧倒的に多いからだと思う。
(それに、日常に変化が少ないことも関係あるかもしれない。)
じゃあ、日本はどうだろう。
日本の子どもたちには、今、暇でゆとりある時間はどれだけあるだろう。
ボクもまだ短いけれど小学校の教員をしてきて、
よく言われることだけれど、
今の日本の子どもは、本当に自由な時間が少ないと感じてる。
それは、習い事やスマホ等に縛られた放課後の過ごし方だけじゃなくて、
授業内容もやらなきゃいけないこともたくさんで、
パンクしそうな学校の中での時間も一緒。
脳を休ませて、想像力や発想力を養うためにも
学校や教室で過ごす時間の中に、
意図的に「間」を作る必要があるんじゃないかと思う。
日本の子どもたちにも、
ただただ
自然の中でのんびりしたり、
友達と一緒に過ごしたりするような、
「すき間」のような時間を作ってあげたいな。
バヌアツの子どもたちを見ていて、そんな風に思った。